企業の生産性向上を実現する「人的資本投資」とは
滝澤 美帆氏(学習院大学 経済学部 教授)
少子高齢化に伴う深刻な労働力不足が確実視される中、企業が持続的な成長を遂げ、物価上昇に負けない実質賃金の上昇を実現するためには、生産性の向上が唯一無二の道である。しかし、日本の労働生産性は、OECD加盟国の中でも下位に位置している。「生産性の低さは、裏を返せば改善の余地が膨大にあるということ」と語る学習院大学教授の滝澤美帆氏が、膨大な企業データを用いた実証研究に基づき、人的資本投資、従業員エンゲージメント、そしてダイバーシティがいかに企業の長期的な業績と相関し、好循環をもたらすかを解説。「人への投資」の真の価値と、次世代リーダーが向き合うべき組織変革の処方箋を浮き彫りにしていった。
- 滝澤 美帆氏
- 学習院大学 経済学部 教授
日本の労働生産性が直面する「相対的な停滞」と構造的課題の全貌
日本の労働生産性は、国際的な視点で見ると極めて危機的な状況にある。滝澤氏は、日本生産性本部が毎年12月に発表する最新データを基に、日本の1時間あたりの労働生産性が「60.1ドル」であることを示した。1時間あたりに生み出す付加価値額を示したもので、為替を100円とすれば約6,000円、150円では約9,000円といった水準になる。この水準はポルトガルやニュージーランドと同程度で、OECD加盟38ヵ国中28位というランキングは、決して誇れるものではない 。
「特に深刻なのは、他国の成長スピードに対する日本の相対的な停滞です。日本の数字が下がっているわけではありません。むしろ少しずつ上がってはいるのですが、他国の上がり方のスピードが圧倒的に早いのです。1時間あたりで測ると韓国よりやや上、あるいは同じくらいという水準です」
産業別の詳細な分析(アメリカを100としたベンチマーク)では、化学産業がアメリカを上回る生産性を維持している一方で、製造業全体では63.8%、サービス業に至っては49.4%と、アメリカの半分程度の付加価値しか生み出せていない実態が浮き彫りになった。
滝澤氏はその理由として、日本企業の99.7%を占める中小・小規模事業者の多さを挙げた。企業の約85%を占める小規模事業者では、スケールメリットが働きにくく、資本装備率も低いため、生産性が上がりにくい構造がある。
物価上昇の局面において、実質賃金の維持・向上は避けて通れない課題である。滝澤氏は、実質賃金の変化を「労働生産性の変化(A)」と「労働分配率の変化(B)」の二要素に分解し、その関係性を整理した。短期的には労働分配率を引き上げることで賃上げを行うことも可能だが、日本の中小企業は既に分配率が極めて高い状態にあり、さらなる引き上げは困難を伴う。
「持続的な賃上げは、生産性の成長に裏付けられていなければワンショットで終わってしまいます。労働分配率を上げる方法もありますが、中小企業はすでにかなり分配していて、継続的な引き上げは難しい。やはり、労働生産性を上げることが重要です」
ここで滝澤氏は、生産性を高めるための「生産関数」の考え方を提示した。生産性は「付加価値(Y)÷労働投入量(L)」で表される。この付加価値を生み出すためには、設備やIT機器などの「資本(K)」への投資と、労働者の質やスキル、経験といった「労働(L)」へのアプローチが必要となる。
続いて滝澤氏は、日本特有の「パラドックス」を指摘した。日本企業は、ソフトウェアやデータベース、研究開発(R&D)といった分野では、GDP比で見てアメリカに匹敵、あるいはそれを上回る投資を行っている。しかし、GDPに対する「人的資本投資(教育訓練費)」の比率は0.3〜0.4%と極めて低い。主要国の中で、近年その投資比率が減少傾向にあるのは日本だけである。
「これほど研究開発に取り組み、ICTにも投資しているのに、なぜ生産性が低いのでしょうか。その原因の一つとして、新しいテクノロジーを利用できるような人への投資が少なかったことが挙げられます。データ上からは、社内でそうした人を教育できてこなかったのではないか、という推測が見えてきます」
実際、日本の労働者の約29%が「自分のスキルが仕事の要求レベルに達していない」と感じており、OECD平均の10%を大きく上回る。特にデジタルスキルやリーダーシップスキルの不足、さらには約46%に達する専門分野と職務のミスマッチが、生産性の足を引っ張っている実態が浮き彫りになった。
「スマートワーク経営調査」が解明した人的資本のROIと公循環
人への投資が具体的にどのような経営成果をもたらすのか。滝澤氏は、9年にわたる「日経スマートワーク経営調査」の膨大なデータを活用し、企業が従業員の成長や健康に投資することで生まれる「ポジティブ・フィードバックの公循環」を統計的に証明した。
第一に、従業員のエンゲージメントと業績の相関である。分析の結果、エンゲージメントが高い企業ほど、その時点だけでなく1年後、2年後、3年後の売上高利益率(ROS)が統計的に有意に高いことが明らかになった。
「注目してほしいのは、3年後まで時差を置いて見ても、エンゲージメントが高い企業ほど売上高利益率が高い、という結果です。エンゲージメント向上は長期的なパフォーマンスに関係するのです」
第二に、人材育成投資による離職率の低下である。DX人材育成などのスキルアップ投資と、テクノロジーの活用をセットで行っている企業ほど、離職率が低く、従業員の定着率が高い傾向にある。
「従業員のスキルアップに企業が投資することは、離職率の低下につながります。『育てる企業』には人が定着するという結果になっています」
第三に、ダイバーシティ(多様性)の推進による競争優位である。慶應義塾大学の山本勲教授の研究によれば、女性管理職や女性役員の比率が高い企業は、その翌年の労働生産性や売上高利益率が高いことが確認された。
「女性に限りませんが、多様な人材が活躍できる組織体制は競争優位になっています。女性管理職比率が上がると翌年の生産性が上がるという統計的に有意な結果も得られています」
デジタル化の「光と影」――管理職の負担とリスキリングの相乗効果
生成AIをはじめとする最新テクノロジーの導入は、人的資本経営のあり方に新たな課題を突きつけている。日経スマートワーク経営調査データを使った山本教授の分析によれば、人事制度や人材投資に積極的な企業ほど、生成AIなどの新しいテクノロジーに対しても敏感であり、利用率が高い傾向にある。
「いろいろな施策を導入しているところほど、新しいテクノロジーの利用率も高い。テクノロジー導入にあたっても、人への投資が大事になっていくという結果が出ています」
一方で、デジタル化の推進には無視できない「副作用」も観察されている。データ分析の結果、デジタル化が進展するほど、管理職の労働時間が伸びてしまうという傾向が確認された。
「デジタル化で部下の仕事が効率化されたことで、上司の見なければならない案件が増えてしまったり、マネジャーが管理すべき範囲が広がったりといった副作用が観察されています。技術導入の際は、必ず業務負荷の配分を抜きで見直さなければなりません」
また、注目される「リスキリング」についても、単独の実施よりも「制度変更」との掛け算が重要であることが示された。分析では、リスキリングと併せてジョブ型雇用などの制度変更を行った企業において、その後の生産性向上が最も顕著に見られた。
「リスキリング単体でも効果はありますが、ジョブタイプの変更など制度変更と掛け算すると、もっといい成果が生まれます。掛け合わせることで、より良い結果が導き出されるのです」
さらに滝澤氏は「健康経営」についても重要な指摘を行った。健康経営を実施している企業は株価にも良い影響があるが、重要なのは「従業員の認知度」だという 。
「制度を導入するだけでは不十分です。会社が健康に気を使ってくれているという『浸透度・認知度』が高い企業ほど、生産性が高くなるというデータが出ています。現場に伝わってこそ、初めて効果があるのです」
「問い」を立てるためのデータ活用と管理部門の生産性評価
最後に滝澤氏は、データに基づいた経営判断の重要性を説いた。多くの企業が悩む「管理部門の生産性」についても、単なる財務指標だけでなく、離職率の低下、残業削減、採用コストの削減、業務の再現性向上といった指標で評価すべきだと提案する。
「管理部門は人、人事や総務、経理といった非常に大事なことをしているのに生産性が測りにくいという悩みが多い。しかし、これらの部門は離職率の低下や残業削減、業務の安定化や再現性の向上などで他部門の価値を押し上げているのです。必ずしも付加価値だけをアウトプットにする必要はなく、時間的な無駄をどれだけ減らせたかといった独自の指標を立て、その変化を見ていくことが大事です」
また、データ活用において大切なのは、高価なソフトの導入ではなく「何を解決したいか」という「問い」をセットすることである。
「豊富なデータがあるのに、うまく活用できていない印象があります。データは問いを立てるための材料であり、宝です。何を目的とするか、そこからセットしていくことが大事です」
さらに、人的資本情報の開示は、単なる法的義務を超え、優秀な人材に対する強力なブランド戦略となる。
「データを開示できることは、管理ができているという評価につながり、信頼できる企業だと判断されます。特に今の学生は情報に敏感で、有給取得率などの開示情報を非常に重視しています。開示をコストと捉えるのではなく、採用のミスマッチを防ぐツールにもなり得ると考えるべきでしょう」
グループディスカッション:リーダーが直面している課題とは
講演に続き、参加者によるグループディスカッションを実施。その後、全員が自社で課題になっていることを発表した。多様な業界の参加者たちからは、自社の切実な課題に引き寄せたリアルな声が次々と上がった。
【参加者の声】- 中途採用主体だった組織に新卒が加わり始めたことで、30代から40代前半の「ミドル層」が不在となっているいびつな構造があります。世代間のギャップが極めて大きく、何よりも「育成」が最優先課題です。人を育て、定着させる公循環をどう作るか、データの裏付けは大きな勇気になります。
- 自動車業界はEV化が進み、事業転換が求められています。それに合わせて人材のポートフォリオも変えなければなりませんが、リスキリングは「魔法の言葉」のようになっています 。実際、現場では何をすればいいのか悩んでいる。事業の目的を明確にし、スキルのマッチングを精緻に行う必要があります。
- 創業者の強力なリーダーシップの下、ベンチャー精神を重んじる一方、コスト意識も非常に高い。研修予算が潤沢にあるわけではない環境で、人的資本経営をどう進めるか。D&Iや健康経営など、比較的コストを抑えつつ進められる施策からはじめ、循環を生み出すのが有効だと感じています。
- 勝ちパターンを経験してきた上の世代と、世の中の情勢に敏感な若い世代の間で乖離があります。ダイバーシティを推進する立場として、立場の違う者同士が、会社と同じ目的を目指せるよう意識のベクトルを合わせることに力を入れたいと思います。
- 従業員の9割以上が海外で働くグローバル企業で、多様な国籍の従業員のエンゲージメントをどう上げるか模索しています。経営方針を最重要とし、数字(データ)を根拠に優先順位を決めていきたいと考えています。
最後に滝澤氏は参加者にエールを送り、講演をしめくくった。
「今日お話ししたことを、全て一気にやれるわけではありません。予算制約がある中で、自社にとって何が優先なのか。データを鏡として自社の状況を把握し、問いを見つけていく。その姿勢こそが、人的資本を強みに変える原動力になります 」